と、タイトル打ってから、無関係そうな内容でスタートしてみる(笑
猛暑のある夜、こんな夢を見ました。
前振りや細かい設定は覚えていませんが、何処かの校舎が、私の職場(笑
ある教室がすごい緑化されていて、そこで私は、スズメガの幼虫のような巨大な芋虫をゴロゴロ見つけました。
咄嗟に思った事は
「お世話しなきゃ!」
ちょっとウキウキして、色々準備しに向かうところで目が覚めました。
これって「吉夢」です。
学生時代にフロイトの心理学にはまって、その時の知識で夢判断や夢占いがすぐ出来ます。
そのフロイトが晩年に、こんな事を言っていました。
「『幸せ』や『不幸』を論じるようになったのは自分達の時代からで、以前は誰も言っていなかった」
古い記憶なので、実際の文面は違うと思いますが、大体こんな内容です。
フロイトは写真が残る近年の方で、この頃から、活版技術の進歩で本が身近になり、新聞が普及し、遠方や高い階級の生活等も、知られるようになりました。
ほぼリアルタイムでの、豪奢な生活や高い技術や能力・・・
写真付き(笑
対して、自分は・・・?
ここで、比べると、大抵は自分の方が劣っています。
劣等感が生まれます。
大昔は、ネットも写真も、新聞も、リアル遠い世界の情報を知る手段が殆どありませんでした。
だから、知らなかった。
ご近所に多少の差はあっても、皆同じ位の生活水準でした。
皆等しく貧しいなら、貧しさは気になりません。
皆でツギハギの服を着ていれば、ボロい服も気になりません。
でも、もし豪奢な貴族生活、裕福な家庭を知ったら・・・。
比べてしまう。
比べてで生まれる優劣。
多くは「劣」の方、劣等感。
これを源にして向上心を燃やせれば良いけれど、大抵は「闇」へと心を向けてしまいます。
心が闇へ向けば、外向的な方は周囲へ被害を出し、内向的な方は、自分の心を壊していきます。
フロイトの時代は、情報の発展で多様な世界を知るようになり、自分と比べ、精神を病んでいく人達が、増え始めた頃。
現代は、ネットや携帯の普及で、沢山の情報が即、届きます。
比べる時代。
そして精神病が本当に増えました。
自死も、うつも、精神的なエネルギー不足。
気力の枯渇。
愛情の枯渇。
精神的なエネルギーの枯渇状態。
スタミナ切れ。
今の社会で、相手を理解するのが難しいのは、精神的に余裕がなくて考えられないのも?
お互い、劣等感から追い込まれて、精神的に枯渇状態。
劣等感の解消に簡単な手法は、優越感。
誰かを見下せばいい。
誰かを卑下すればいい。
周囲を下げる事で、自分が高くなったと錯覚し、優越感を得られる。
うつや自死のような、精神的なエネルギー不足は、人との関わりが減る事でもなります。
人との関り、ちょっとしたすれ違い際のあいさつでも、エネルギーは補充されるので、挨拶推奨運動もありますが。。。
嘲りや見下しの笑みで口にするあいさつって、強力な精神攻撃。
見返りに得ている優越感に、気付いている人は、本当に稀じゃないでしょうか。
「鬱の人に頑張るなは禁句」は、大分認知されてきた事ですが。。。
「頑張れ」と言う単語を使うな、と言う程度の認識では、足りないんです。
精神的なスタミナ切れ状態へ「頑張れ」って言うのは、フルマラソンでゴールして倒れ込んだ人へ「サボるな!」と言うようなもの。
でも、家に引きこもっている人を見て、世間的には「サボってる!」と感じる人が多いです。
うつは、精神的なエネルギーの枯渇状態。
心のスタミナ切れ。
エネルギーを使い尽くすほど、その人は頑張ってきたんです。
スタミナが切れるまで、走り続けて来たんです。
その人にとっての力の限り、精一杯、出し尽くしての、枯渇状態です。
それへ「頑張れ」と言うのは、「まだ出し切っていない」と言っているんです。
まだ本気でやっていない。
まだ全力でやっていない。
気力も尽き果てた人に、もっと出せるはずだから「頑張れ」と声をかける。
この「もっと出せる」とは、何を基準にして、判断しているんでしょう。
何と比べているんでしょう?
私は日月神示に出て来る考え方が好きです。
この書は預言書とか言われますが、私には哲学的な教えの書、に近いです。
この日月神示の記述で、こんなものがあります。
「一寸のびる草もあれば一尺のびる草もあるぞ、
一寸の草は一寸が、一尺の草は一尺が頂天であるぞ。
これが公平であり平等と申すもの。」
その人にはその人の能力があり、限界がある。
「私に出来るんだから、あなたにも出来る!」
違う。
貴方は貴方、その人は「貴方」ではない。
「貴方」と同じではないから、同じ結果は出ない。
「何故出来ないんだ!」
その「何故」はどんな意味ですか?
貴方の望む通りの結果ではない、と言う意味ではありませんか?
チューリップに「ヒマワリのように大きくなれ!」と言っても、なりません(笑
「何故高くならないんだ!」
チューリップだから(笑
こう書いてしまうと、すごく馬鹿らしいけれど。
もし、ヒマワリしか「花を知らない」としたら・・・
チューリップの丈が伸びなければ、その人が予想する結果とは違います。
正に「一寸のびる草もあれば一尺のびる草もある」のです。
ここで「新たな知識」を喜ぶなら光に。
「無知」を悔やむなら、闇に。
何て大きな、別れ道。
「皆出来ているのに、どうして出来ないの!?」
これも、同じです。
たまたま「皆」と言われる人達が出来ていただけで、出来ない人だっています。
皆、同じではない。
一人一人、違う存在。
量産された釘だって、極微小でも違いがあります。
石ころだって砂粒だって、誤差があります。
生きている人間だったら、尚の事。
一人一人の「個性」が大切にされる時代に。
そんな社会になれたら、きっと皆、しあわせ。
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某ブログでうつと自死の話題が出ていて、コメ書こうとして長くなったから記事にしたのは秘密です( ´艸`)